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ヒトラーは何故、人を魅了したのか 150万語から読み解く弁士ヒトラー 『ヒトラー演説 熱狂の真実』 高田博行  感想 

☆大分類:本 歴史

ヒトラー演説|新書|中央公論新社

高田博行『ヒトラー演説』(中公新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)

ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)

 

 

ヒトラーが政治の世界に出てから最後のスピーチまでの約25年間、558回の演説、約150万語からデータ解析した本です。どうしても独裁者やおっぱいぷるんぷるんのイメージが強いのですが、非常に興味深いデータ本となってます。

 

歴史に興味がある人、演説がうまくなりたい人には非常に向いていて、如何にして『人を魅了する』演説を行うかのエッセンスがあります。

 

長いので太字を読めば大体分かるようにしています。

 

荒削りな演説(1919-1924)

御存知の通り、ヒトラーはもともと芸術家を目指す目的としてウィーンに上京したが挫折。絵を売りながら生計を立てていたが、第一次世界大戦バイエルン陸軍兵に志願、伝令兵として活躍。実は青年になった頃から才覚があったのではなく、幼少期からその才能の片鱗を見せていた

 

その後、DAP(ドイツ労働者党)*1の演説での活躍を機に弁士としての側面が注目された。この頃の特徴として、

  • 『情熱に満ちた』演説
  • 仮定法、対比法、暗喩法といった構文手法
  • スローガンのようなセリフ
  • 箇条書きのメモ(完全なカンペではない)

があり、アドリブというよりも、スピーチとしての完成度が高いことが分かる。特に構文手法は、

  • もしAならBだろう
  • AではなくB
  • 国を乱す金持ち(ユダヤ人のこと)

今では教科書の最初のページに載っているような手法を、演説の際は効果的に利用した。

 

その後、1923年のミュンヘン一揆失敗の折には、その才ある論説で自身に大変有利な判決を手にし、その収監の時に『わが闘争』を執筆する。

 

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)

 
わが闘争(下)―国家社会主義運動(角川文庫)

わが闘争(下)―国家社会主義運動(角川文庫)

 

 

魅せる演説(1925-1928)

釈放後はNSDAPでの求心力の向上や自身のリーダーシップを訴え、政治家としての色が強くなっていく。当然、彼の演説に人々は熱狂し、当時の集会場であるビアホールは大盛況であった。

 

この頃のヒトラーは、『地方の話がうまい弁士』からの脱却意識が当然あり、

  • 方言ではなく共通語
  • 写真によるイメージ戦略

と、『ドイツ全国を目指す政治家』への転身をイメージした。

 

スピーチ手法にしても、上述に加え、漸層法(ぜんそうほう)*2二択法を最後に持ってくることで、より聴衆に響く演説となっている。

 

何かを実現するためには、コネや資金、タイミングなど諸条件があるが、政治活動で必要なのは大衆の力ヒトラーは認識していた。そこで、第一次世界大戦でドイツの敗戦の一因ともなったプロパガンダの勉強も収監中に行っていた。そこで重要視されたのが、

  • 書かれた言葉よりも語られる言葉
  • 繰り返し演説を行う
  • 論理より感情
  • ポイントを絞って、繰り返す
  • 聴衆の反応を理解する(フィードバック)
  • 群集心理を理解する*3
  • 言葉を使って『無からパンをつくる』*4
  • アメリカ流広告術(イメージ戦略)

以上の点であり、大衆はインテリではなくその他大勢の部類。つまり、大学の講義を行うのではなく、小学生に授業を教えるように演説をしなければいけないことを肝に銘じていた。

 

そもそも、演説を効果的にするにはどうすべきなのか。著者は、古典期ギリシャの弁論術を紹介している。

弁論術とは聴衆に対して説得的に語る技法のこと。その為に、

  1. 発見(テーマを見つける)
  2. 配列(語りたい内容を配置する)
  3. 修辞(文彩によって魅力的に表現)
  4. 記憶(文章の暗唱)
  5. 実演(暗唱内容を表情豊かに)

よく、ヒトラーはジェスチャーによる演説が思い出されるが、それは手段の1つの内で、実際は言葉の部分の要素も大きいのである。

 

オペラの演説

前項の頃はNSDAPがやや陰りを見せていた。それはヒトラーの演説が禁止されていたから。表立って活動をしていなかったヒトラーは出所後、演説解禁後にいよいよ動き出す。

 

1928年11月16日、ベルリンのスポーツ宮殿で、ベルリンでは初めのての公開演説、ラウドスピーカーを採用。兵舎程度なら声の出し方で通るが、中・大規模になると隅々まで声が届かないことを彼自身が気にかけていて、この増幅器はその憂いを解消した。*5後にノイマン社のマイクCMV3、通称ヒトラーの瓶が採用された。

 

1926年のヤング案、1929年の世界恐慌とドイツを含め、世界的不安定さを増した状況で、1930年4月27日ゲッペルスが全国宣伝指導者に就任。彼の強力なプロパガンダ方針が加わり、サラリーマンや農民といった一般層の支持を固め、国政に大きな力をもたらしていく。それと同時に、これまで発言してきた曖昧な表現から、明確な言葉を使い始めたのも確固たる意志があった。*6

 

ただ彼にも弱点があり、それはラジオが使えなかったこと。この当時ラジオ放送は与党政府のみが使え、野党である彼らにはその権利がない。ではどうしたかというと、飛行機で電波よりも早く行くというトンデモ計画が発動され、ドイツ国内を縦横断した。しかし、今考えれば対面演説の効果を理解していた彼らにとって最善策以外の何物でもなかった

 

1932年2月から11月まで計5回の総選挙が行われ、ヒトラーの声は限界を迎えていた。4月の段階で医師に指摘されたヒトラーは、極秘裏にデヴリエントというオペラ歌手に、発声法を始めとした個人レッスンを受けた。

 

わが教え子、ヒトラー デラックス版 [DVD]

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 ヒトラーの欠点として、

  • 体に負担をかける間違った発声法
  • メッセージがないジェスチャー
  • 全体を考慮した声の高低
  • 発声法気持ちがこもっていない感情語*7

など、オペラという魅せる表現から、ヒトラーはこれを修正。後に絶大なテクニックとして確立する。

 

ラジオの演説(1933-1934)

1933年1月31日、ヒルデンブルグ大統領の元、首相に任命され、ついにナチ政権が誕生する。ただ、完全なナチ政権ではないので、ここからまたヒトラーの足固めが行われる。

 

ここでラジオを使用できるようにはなったが、聴衆の居ないラジオはヒトラーにとって不慣れだったようで、理想的な収録にはならなかった。そこで、公開演説をラジオ中継する手法を用いて、これを克服。五感を用いたプロパガンダヒトラーにとっての演説の最終形態といえる。

 

さらに国の政治的意思と国民の意志を『同質化』させる目的で国民啓蒙・宣伝省を設立し、あらゆる文化を統制する挙国一致体制の様相を呈する。その大きな1つとして、国産ラジオVE301を開発、一般層への影響力を増した。後にDKE38(ゲッペルスの口)も広く普及したが、対面演説よりも効果が低いと判明し、娯楽放送も流れるようになる。

 

国内の同質化と同時に、国外への自身のメッセージは控えめとなっており、来るべき時期に向け、言葉を選んでいた時期でもあった。『平和』『軍縮』といった平穏なキーワードを使うことで、注意の眼をそらす意図が存在する。


ヒトラー演説-意志の勝利 - YouTube

 

侵攻の演説

政権就任後、ほぼ変わりない演説内容に飽きが来ていていた国民は、徐々に国外への領土拡大を期待し始める。ヒトラー『生存圏』という言葉を用いて、第一次世界大戦敗戦の屈辱と絡め、国威掲揚を促した。この頃のドイツは、ナチ一色…という訳でもなく、ラジオの強制聴取のように束縛の面も阻害要因であった。

 

ザール地方返還、ヴェルサイユ条約の一部破棄*8、ラインラント進駐、ズデーテン地方分割と国外への進出が目立ち始めた中、演説内で『平和』という言葉が出てくる。これは上記の正当化の意思が明確にあると著者は分析。

 

1935年頃から声のかすれが重病ではないかと思ったヒトラーオーストリアを始めとした、東ヨーロッパでの戦争を計画。得意のプロパガンダもあり、オーストリアのシュシュニック首相を内閣総辞職に追い込み、オーストリアを併合。戦争の火種が徐々に大きくなってきた。

 

この時期に至っては、演説内容も国を主眼として、対外的な言葉を選んでいるのに加え、業績・評価・人評を表す言葉を好んで使っている

 

さらに、ナチスに代表される『フェルキッシュ(民族主義的)』を名詞と組み合わせて使うのも特徴。本来、ヒトラーは『わが闘争』の中で、『規定しにくくさまざまに解釈可能な外苑を政治闘争の中に持ち込む』ことを嫌っているが、名詞と組み合わせることでイデオロギー性を薄める効果があった。

 

誰もいない演説

一般市民にとって、戦争は短期で終わるものと考えがちで、よくある言葉で、『次のクリスマスまでには終わる』なんて言われていて、1939年9月1日、ポーランドへ侵攻を『平和への侵攻』と定義し、ナチ政権もそう考えていた。しかし、1940年にはノルウェーデンマーク、フランス、オランダ、ルクセンブルクベルギーへ侵攻。その後のロシア侵攻以後は、歴史の教科書で学んだ事も多いだろう。

 

トーキー映画による『ドイツ週間ニュース』の無声化、ヒトラー自身の無気力、主張のない演説と末期の政権としては申し分ない材料が揃っていて、戦争の終結を望んでいた国民が多数派になりつつあった。1943年1月30日の政権獲得10周年記念祝典でゲッペルスの総力戦演説を最後に、彼らの影響力は上がることはなかった。


ヨーゼフ・ゲッベルス 総力戦演説 ハイライト - YouTube

 

結局、声を遠く大きくしたスピーカーやラジオは、人の心を完全に捉えることが出来なかったという何とも皮肉な結果に終わっている。

終わりに

人は何かを伝える時に、眼や耳といった五感に訴えかけ、それは古代の頃から実践されてきた。文明が発達した現代でも、その理念は変わりない。

 

ヒトラーに限らず、時代、場所が変わればまるで違う人生を送っていたのは間違いない。彼を弁明するわけではない。勝者の歴史からみて、彼は独裁者であったから。

*1:NSDAP国家社会主義ドイツ労働者党、ナチ党の前身

*2:漸層法 - Wikipedia

*3:ギュスターヴ・ル・ボン - Wikipedia

*4:歪曲法による意識変換

*5:こういった拡声装置を利用したプロパガンダをパブリックアドレスとも呼ぶ

Public Address - Wikipedia

*6:リストを見ると、思想批判から国政批判、党方針へ転換しているように見える

*7:感情表現インフォ:ピッタリの気持ちの描写が探せる言葉の辞書

*8:空軍保有、徴兵制復活

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